宮崎地方裁判所都城支部 昭和33年(ワ)96号 判決 1960年7月28日
原告 轟木秀行
被告 東洋興業株式会社
代表取締役 東秋夫
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
≪省略≫
理由
一、原告主張の本件請求の原因事実中一、事実は当事者間に争がない。
二、成立に争のない甲第一号証の一ないし四、及び本件現場の検証の結果によると、宮崎県道坂元線の通称尾佐川カーブ(宮崎県北諸県郡三股町大字長田字尾佐川所在)は、高台地を堀切取つて道路を作つたため、同カーブの南側は高さ約一米位の土手、北側は高さ約三米位の崖地になつており、同町大字長田字轟から同大字字天木野に進行した場合、同カーブは左折して約一二〇度もの孤線を描き、しかも約四〇分の一の上り勾配になつているため、同カーブを右のように進行した場合、全然進路前方の見透しがきかないことが認められ右認定に反する証拠はない。
三、原告は、右カーブに差しかかつた自動車運転者は、そのカーブを安全に曲るため、警笛を吹鳴して通行人は勿論のこと犬馬などに対する危害を避けるため警告を与えて、減速し、何時でも急停車の処置をとりうる状態において事故を未然に防止して運転する注意義務があると主張し、被告会社は同義務のあることを認めているが、当裁判所は、このような注意義務の存否については、自白の対象にならないと考える。何故ならば、「法益侵害の危険を回避すべき用心深い態度」である注意義務は、抽象的な態度ではなく、それぞれの社会環境において客観的に、法令ばかりか、条理、慣習などの共同生活上の社会規範によつて規定される具体的な態度であつて、そのような具体的態度の内容は、右法令や社会規範の法的解釈によつて得られる一つの法律的価値判断に属し、裁判上の自白の対象である具体的事実に属さないからである。
しかし、当裁判所も、さきに認定したような全く見透しのきかない本件カーブを被告会社所有の貨物自動車の運転者である訴外堀之内安己が同自動車を運転して右轟から同天木野に向つて進行する場合、進路の前方に存在するかも判らない人や物に対し危害を加えないよう事故を未然に防止するため、原告主張のような注意義務があると解する。(道路交通取締法施行令第二九条第六七条参照)
もつとも、原告は犬に対してまでそのような注意義務があるとしているので一言すると、犬が私法上保護をうけるのは、犬が生物であることから、人と同様生命を尊厳されなければならないからではなく、ただ人の財産権の対象である物として保護されるにとどまり、その結果犬の生命が毀損されないまでである。このことは、人の財産権の対象とならない犬――所謂野犬――が、轢殺されようと撲殺されようと、そのこと自体に道徳的批難はあつても法的な批難を加えられないことに想到するとき明らかである。しかし、本件カーブを曲る時、見透しのきかない進路前方に出現するかも判らない犬が、全部野犬であればともかく、他人の財産権の対象になつてい犬もあると予想される以上、とつさに両者の区別がつかない限りにおいて、運転者はすべての犬に対しても原告主張のような注意義務があると解するのが相当である。
四、そこで、本件において、右堀之内安己が右の注意義務を尽したかどうかについて判断すると、右一において争のない事実及び当事者間に争のない堀之内安己は、本件カーブを曲るとき、その進行方向前方に原告所有の猟犬がいたのに気付きながら轢殺したことや堀之内安己の証言、本件現場の検証並びに原告本人尋問の各結果を総合すると、堀之内安己は貨物自動車を運転して本件カーブに時速約三〇粁で差しかかり、ほとんど、本件カーブの曲角附近まできたとき、進行方向の右前方約二七米で、同道路の南端にある幅約二〇糎深さ約三五糎の側溝の中を対進してくる原告所有の猟犬の姿を認めたが、それと同時に、左前方約一七米のところに同一方向に進行する二人乗りの自転車一台を発見し、右猟犬は同側溝の中をゆつくり対進してくるので、注意を右自転車に移し直ちに警笛を一回吹鳴すると同時に、速度を約二〇粁位に減速して徐行し、同自転車の右側を追い越したが、その直後にハンドルにシヨツクを感じ、急停車の措置をとつて約一米位先きで停車したが、右猟犬の頭部及び腹部に貨物自動車の前車輪を乗り上げて轢き殺してしまつたことが認められ右認定に反する証拠はない。
右認定の事実からすると、被告会社の貨物自動車の運転者である堀之内安己は、本件カーブを曲るについて、直接右猟犬に対してではないにしても、警笛を一回吹鳴し時速を約三〇粁から二〇粁に減速して徐行し急停車することのできる状態において運転したのであるから、堀之内安己は、右注意義務を尽したとしてよい。何故なら、堀之内安己のとつた右の措置は直接右猟犬に対してしたものではないにしても、警笛吹鳴、減速、急停車することのできる措置という一連の処置それ自体は、同時に右猟犬に対しても効果的であるからである。
五、ところで、原告は本件において、堀之内安己は右猟犬が進行方向の前方にいることに気付いていたのであるから、そのように気付いた以上は、同猟犬の動作に充分注意し同猟犬に危害を加えないように減速、警笛吹鳴及び急停車のできるよう処置をとつて運転する注意義務があると主張しているので、考究すると堀之内安己は右猟犬が進行方向の前方にいたのに気付いていたことは当事者間に争がないのであるから、このような場合原告主張のような注意義務が存在し、堀之内安己はその注意義務に違反したようであるが、しかし堀之内安己が、右猟犬に気付きながら、それを視野から失つた理由は、右に認定したとおり二人乗りの自転車に対し危害を加えないように注意を配つたことにある。ところで、前述したとおり、犬はその生命が尊貴であるからとの理由で法律上保護をうけておらず、人の財産権の対象である物としての範囲内においてその保護をうけているのに対し、人は、その生命自体が代償のないものとして法律上保護をうけているのであるから、堀之内安己が、はるかに重大な法益である人の生命身体に危害を加えないよう注意するの余り、人の生命という法益に比してより劣後にある財産権の対象としての犬にさしたる注意を向けなかつた結果本件事故をひき起したわけで、運転者に対し、二つの目的に同時に同一程度の注意力を集中することを期待するわけにはいかない限り、堀之内安己が、より大きな法益の安全を期するため同猟犬は、自分で安全に右側溝中を進行するものと期待して、右猟犬の存在に注意を向けなかつたことは、責めらるべきではない。もつとも、このような場合直ちに急停車をして両方の法益の安全をはかるべきであるという反論もありうるが、貨物自動車の果す迅速な輸送という社会的機能を考えるとき、本件急カーブの曲角で、進行方向の右側に犬が側溝中をゆつくり対進してくるのに対し、左側の道路上を進行する二人乗りの自転車を発見したという本件にあつて、直ちに急停車をして、犬と二人乗りの自転車に対する加害をさけることを運転者に要求することは、苛酷に失すると考える。
六、証人満丸みどり、同武田重則、同堀之内安己の各証言及び原告本人尋問の結果によると、右猟犬は本件事故のあつた日の二、三日前から、附近の山中に仕掛けられた猪わなにかかり、首輪の辺りにわなのかかつていたのを、本件事故のあつた朝訴外武田重則、同満丸みどりらに助け出され、わなから外されて独りで山を下り、帰宅の途中、本件事故にあつたことが認められ、証人堀之内安己の証言、本件現場の検証の結果によると、右側溝は道路の南端にあるのに、右猟犬の轢死体が発見された位置は側溝から約九米も北寄りで、道路の北端に近いことが認められるから、右猟犬の方が側溝から出て道路を斜めに横切つて右貨物自動車の進行前方に自分で入つていつたため右貨物自動車と衝突したもので、原告は右猟犬が非常に利巧で諸車には常に直ぐ自分で逃避すると自認しているのであるから、そのように自分で逃避しないばかりか、自分で貨物自動車の進路に入つていつたのは、一に数日来猪わなにかかつて同日朝ようやく助けられるという異常な状態にあつたためであると推測するの外ない。
七、以上の次第であるから、堀之内安己には、何等責められるべき過失はなく、本件事故の原因は寧ろ異常な状態にあつた右猟犬が自分で、貨物自動車の進路の前方に入つたためで、その結果、同猟犬はあえない最期を遂げたにすぎないから、そのほかの判断をするまでもなく原告の本件請求は失当として棄却を免れない。そこで民訴八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 古崎慶長)